『365日のシンプルライフ』


映画『365日のシンプルライフ』予告編(8/16公開) - YouTube

雪がちらつく北欧フィンランド。男が家具も何もないがらんどうな部屋を全裸で飛び出し、夜の街を疾走する。 たどり着いたのはトランクルーム。そこにはかつて彼が持っていたもののすべてがしまいこまれていた。だが彼はそこからロングコートだけを取り出し、雪降るなか家路につく。

彼はあるルールを自分に課し、それを365日続けることに決めていた。ルールは4つ。

  1. 自分の持ち物全てを倉庫に預ける
  2. 1日に1個だけ倉庫から持ってくる
  3. 1年間続ける
  4. 1年間何も買わない

 男の名前はペトリ。彼はこのルールに則り、これからの365日をカメラに収めようとしていた。

 

まず、何も買わないってところで、そもそも飯どうすんだ?と思ったら次の日あっさりと弟が食料を差し入れてきた。これで暮らすらしい。いい弟だ。というか、これが1年続く?弟が彼の代わりに飯買ってくれてるだけじゃん?序盤からルールの曖昧さに首をひねる。なんか食いもん栽培するとか、街の残飯あさるとか、そういうストイックなものではないんだなということにそのあたりで気付く。そもそも、スタートは家具が一切ない部屋からのスタートなのだけれど、カメラは彼を夜通しフィックスで捉えてたりして、明らかにビデオカメラや三脚、充電器なんかが存在してるはずなんだけど、それらは最後まで画面からは不在のままだ。後になって車も手に入れる(これは倉庫には入らないので友人に預かってもらってたようだが)のだが、その車、ガソリン必要だよね?そのあたりの説明は何もない。とにかく何も買わずに飯をどうするか問題は、その後映画が終わるまで一切触れられない。

ある日ペトリ君はノートパソコンを倉庫から持ち出す。「これは仕事に使うものだから。私用では使わない」という。彼の仕事は映像関係で、撮影後の編集や、仕事のメールチェックなどをパソコンでする必要があった。「携帯は必要ない、が、携帯がなくて連絡取れないことを友達から非難される」とぼやいていた彼だけに、そうしたコミュニケーションツールにもなりうるものを再び生活に持ち込むことについて逡巡はあるのかと思いきや、すぐにパソコンで友達と私用メールで連絡をはじめ、友達を自宅に招いて再会を屈託なく喜んでいる。ん?携帯があればやってたこととどこに大きな違いがあるのだろうか?なにがよくてなにがダメなのか、彼の微妙な基準が伝わらず、見てるこっちはもどかしい。

 

このチャレンジを始める前に、ペトリ君が自分の部屋の荷物をトランクルームへ運ぶシーンがあって、荷物の中には『ファイト・クラブ』のDVDがあった。『ファイト・クラブ』にはストリートファイトを行う秘密組織が登場する。組織にはルールがある。

  1. ファイト・クラブについて話すな
  2. ファイト・クラブについて話すな
  3. だれかが、やめろと言う、もしくは引き下がったら、ファイトは終わり
  4. ファイトは1対1
  5. 一度に一試合
  6. シャツと靴は脱ぐ
  7. 試合は、戦えるまで
  8. 初めてファイトクラブに来たものは、戦え

 『ファイト・クラブ』は、秘密組織を作った男たちがストイックな生活を送り、物質至上主義的なものに反抗して生きる実感を得ようとする話だ。ペトリ君がこの挑戦を発想した原点には、間違いなくこの映画が存在しているはずだ。ただ、『ファイト・クラブ』にはあったブラックユーモア的な要素がこの365日のシンプルライフ』には欠けているような気がした。『ファイト・クラブ』での現状への異議申し立ては、はじめは劇場で上映されている子供向けアニメ映画のフィルムの1コマにポルノ映画のショットを挿入するだとか、高級レストランのウェイターがこっそり料理に自分の唾や尿を混ぜるといったいたずらだったのだが、次第に主人公の思惑を離れ、金融街の高層ビルを爆破するようなテロにまで発展していく。そうした小さなことがどう転がっていくかわからないという部分が、365日のシンプルライフ』のほうには(ドキュメンタリーであるにもかかわらず)あまり感じられなかった。

 

チャレンジを始める前にペトリ君はおばあちゃんに相談するのだけれど、おばあちゃんは「今と比べて、戦後間もないころはみんなモノは持ってなかった」みたいなことを言う。弟や母親にはバカげたチャレンジだと思われているが、かつてモノを持たない生活を送ったことのあるおばあちゃんは、孫のチャレンジに一定の理解を示す。だが、新しい彼女もできたペトリ君が、チャレンジの終了間際になって一時は入院していたおばあちゃんに再び会いに行くと「女はモノを持ちたがる。結婚すると状況が変わる」と言われる。彼はそれに反発するでもなく映画は終わりを迎えるのだけれど…あれ?何事もほどほどに、という落とし所なのか?ペトリ君が『ファイト・クラブ』で得た教訓がそういうことなのだろうか?大風呂敷を広げてゲームをはじめたわりには、しまい方がどうも解せない。

ただ、エンディングのスタッフロールでペトリ君が倉庫から取り出したものを順番に並べたリストが出てくるのだけれど、10番目に帽子があったのはちょっと面白かった。1日目が全裸にコートのレベルなのに、10日目は早くないか?

映画『365日のシンプルライフ』オフィシャル・サイト

365日のシンプルライフ(字幕版)

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  • ペトリ・ルーッカイネン
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『夢と狂気の王国』

スタジオジブリのことをうまく言い表したタイトルが素晴らしく、とても期待していたのだが、ちょっと期待外れだった。面白くないわけではない。『風立ちぬ』という映画についてのドキュメンタリーとしては、完成大詰めの作業のあたりが急に駆け足で紹介されている以外は申し分なかったと思う。

ただ、やはり見たかったのは「狂気」の部分で、この映画の失敗点はそのジブリの狂気の部分に踏み込めなかったことではないか。宮崎が「性格破綻者」と呼び、「完成させたくない」という『かぐや姫の物語』の公開を夏から秋に延期させた高畑勲の存在が、この映画の中ではとても希薄だ。ジブリのアニメーターが宮崎と高畑の関係を光と影になぞらえて語る場面があったが、その影の存在である高畑(どちらが光でどちらが影であるか、そのアニメーターは言外に濁していたが)は、カメラにちゃんと収められていない。宮崎は1日に1回は高畑の話題を口にし、鈴木敏夫や『かぐや姫』のプロデューサーである西村義明ら周囲は高畑の作業の遅れに何度もやきもきするのだが、高畑はなかなかカメラの前に姿を見せない。『風立ちぬ』を完成させた宮崎の前に現れ、労をねぎらうところくらいか。そのときに、宮崎駿鈴木敏夫との出会いがあったから今自分はこうしていられる、と高畑が語るインタビューが重なる。そこだけ。丹念に追う宮崎の現場には混乱はなく(あったとしてもこの映画には存在しない)、制作の遅れで混乱してるであろう高畑の現場は一度も映らない。『風立ちぬ』の主人公である堀越二郎の声を庵野秀明にやらせたくだりだけでは、狂気の表現としては物足りなかった。

一番面白かったのは、宮崎吾朗が新作の企画について打ち合わせてるとき「自分はこの業界に間違った形で入ってきたというか、何か自分だけのモノを作りたくてジブリに入ってきたわけじゃない。ジブリの人間を食わせていくために映画を作らなければならないって、俺のことどう思ってんの?それはプロデューサーの仕事だろ!」(大意)とプロデューサーをやってるらしい川上量生にキレていたところか。駿が「僕はオタクじゃない」って断言してたとこも感慨深い。

新宿バルト9のロビーでは、ジブリをイメージした庭ができていた。バルト9はロビーにこういうものを作れるスペースがあるなら、終映後のエレベーター付近の混雑を何とかしてほしいのだが…

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追記

狂気って、宮崎が「呪われた夢」だというアニメーションを作り続ける(それが不幸せな人生を招こうとも)ことや、『風立ちぬ』が戦争反対の戦後民主主義教育を受けつつも戦争兵器への偏愛を抱く宮崎の葛藤の上に成立していることなのかとぼんやり思い出した。そうした作家の個人的な業と、会社組織であるジブリとの軋轢みたいなものがもう少し見たかった気がする。